ロシア · ロシア軍左翼指揮

ピョートル・バグラチオン

ピョートル・バグラチオン
George Dawe《バグラチオン将軍の肖像》(1825年までに制作)、エルミタージュ美術館「1812年戦争英雄画廊」(冬宮)所蔵。Public Domain, via Wikimedia Commons |参照

ロシア軍で最も攻撃的な将軍として知られるが、名を高めたのは後衛という最も報われない仕事だった。退く軍を生き延びさせる役を二度引き受け、二度とも成功させている。ロシアが「軍を失わない戦争」を選べたのは、それを可能にする指揮官がいたからでもある。

生没
1765年 — 1812年9月24日グルジア(ジョージア)の王家の血を引く家系
地位
歩兵大将・第2西部軍司令官スヴォーロフの薫陶を受けた
本サイトでの位置づけ
後衛という機能軍を残す戦争を成立させた側の技術

担っていた機能:軍を生かして退く

会戦で負けることと、軍が消えることは別である。前者は挽回できるが、後者は挽回できない。両者を分けるのは、退却のあいだ追撃を受け止め続ける部隊がいるかどうかだった。

1805年11月16日、シェーングラーベン(ホラブルン)でバグラチオンは約7,500の後衛を率い、追ってくるミュラの騎兵を足止めした。ミュラはロシア軍主力が眼前にいると誤認して休戦交渉に応じ、その間にクトゥーゾフの本隊はブリュンでブクスヘヴデンの増援と合流している[1]。捨て駒として置かれた部隊が、軍全体を救った。

この仕事の価値は、ロシア遠征の構造と直結する。勝利条件が「軍を残すこと」である側にとって、後衛は補助的な役ではなく戦略そのものの実行部隊だった。

フランス軍と戦い続けた七年

バグラチオンは1799年、スヴォーロフの下で北イタリアに従軍している。第二次対仏大同盟戦争で、フランスが1796〜97年に得た成果がほぼ帳消しになった、あの反攻である。前衛と後衛の両方を任され、山岳での機動を叩き込まれた。

1805年のアウステルリッツでは右翼を率い、1807年のアイラウでも戦った。同じ相手と七年戦い続けた将軍は、ロシア側にも多くない。相手の手を知っているからこそ、決戦を避ける判断の重みも理解していた。

決定的だった場面:ボロジノ

1812年、バグラチオンは第2西部軍を率い、バルクライ・ド・トーリの第1軍と合流するまで数百キロを退いた。退却方針そのものには強く反対しており、両者の関係は緊張していた——最も攻撃的な将軍が、最も忍耐を要する任務を担っていたのがこの年である。

9月7日のボロジノでは、南翼のフレーシュ(矢じり形の土塁)を守った。ダヴーとネイの繰り返す攻撃を数時間受け止め、午前11時ごろ砲弾の破片で左脚を砕かれる。手術ののち壊疽が進み、9月24日に死去した[2]。

指揮官を失った左翼は動揺したが、崩壊はしなかった。セミョーノフカ川の線まで下がって立て直している。ロシア軍がこの日「負けなかった」のは、こうした持ちこたえの積み重ねによる。

限界、あるいは終わり方

バグラチオンの死は、ロシア側にとって高い代償だった。だがそれでも軍は残り、戦争は続いた。アウステルリッツで右翼を率いて敗れ、アイラウでも戦い、最後にボロジノで倒れる——七年にわたり、同じ相手に対して同じ役割を担い続けた。

彼が体現していたのは、勝つ技術ではなく負け方を選ぶ技術である。戦場で勝てない側が戦争に勝つ道筋は、この技術の上にしか成立しない。

出典

  1. J. Rickard, Combat of Hollabrunn, 15-16 November 1805, History of War.
  2. Encyclopædia Britannica, Pyotr Ivanovich, Knyaz Bagration.
  3. The Napoleon Series, Russian Generals of the Napoleonic Wars: General Peter Bagration.

登場する戦闘