プロイセン · プロイセン軍騎兵指揮官
ゲプハルト・レーベレヒト・フォン・ブリュッヒャー

「前進元帥(マルシャル・フォアヴェルツ)」と呼ばれたプロイセンの野戦指揮官である。戦術家としての評価は高くないが、1815年6月18日に彼が戦場へ現れたことで戦争が終わった。約束を守り続けることが、それ自体で戦略になる——ブリュッヒャーはその実例である。
最初の敗北から
1806年、イエナ=アウエルシュテットのあとブリュッヒャーは北へ退いたが、追撃した三個軍団に包囲され、11月7日にラトカウで降伏した。降伏文書には「弾薬と糧食の欠乏による」と明記させている[1]。
この経験が、後年の姿勢を規定した。プロイセン軍は1807年以降に組織を作り直し、参謀という職能を制度として整える。個人の資質に頼らない指揮を目指した点で、フランス側とは逆方向の学習だった。
担っていた機能:止まらないこと
1813年、シレジア軍を率いたブリュッヒャーはトラッヘンベルク計画の実行者となる。8月26日のカッツバッハでマクドナルを破り、10月のライプツィヒでは北からメッケルンを奪って包囲を締めた[2]。
彼の役割は、規則の中で最も難しい部分を担うことだった。本人がいる軍とは戦わず、元帥の軍は積極的に叩く——避けるべき相手と叩くべき相手を見分け、後者に対しては躊躇しない。慎重すぎれば包囲は締まらず、積極的すぎれば本体と噛み合ってしまう。
1814年のフランス戦役では、ナポレオン本人に何度も打撃を受けながら、そのつど部隊を立て直して前進を再開した。負けても翌週にはまた来る敵という性質そのものが、当時のフランスにとって最も対処しにくい相手だった。
決定的だった場面:ワーヴルへ退く
1815年6月16日のリニーで、72歳のブリュッヒャーは騎兵の先頭で突撃して落馬し、倒れた馬の下敷きになって数時間動けなかった[3]。指揮を執った参謀長グナイゼナウは、退却先を東のリエージュではなく北のワーヴルとした——ウェリントンとの合流を保てる方向である[3]。
この選択が百日天下の帰結を決めた。分断は形の上では成功していたのに、維持されていない。負傷から戻ったブリュッヒャーは合流方針を貫き、6月18日午後、ワーテルローの戦場に約4万8,000〜5万が現れる。
敗れた翌々日に、約束どおり別の戦場へ来る。軍事的な巧妙さではなく、これが決め手だった。
到着したあとも止まらなかった。ワーテルローで戦線が崩れたのち、追撃を引き受けたのはプロイセン軍である。夜通し追い続けたことで、退却は組織的な後退ではなく解体になった。勝ちを決定に変える仕事を、この日は相手側がやっていた。
限界、あるいは終わり方
戦術家としての評価は一貫して高くない。判断の粗さも指摘される。それでも彼が連合軍で不可欠だったのは、連合というものが崩れる原因の大半が、味方の不履行だからである。1813年から1815年まで、彼は一度も相手を置き去りにしなかった。
1819年、76歳で没した。ナポレオンの方法を止めたのは、より優れた方法ではなく、止まらない相手だった。
出典
- Wikipedia contributors, Gebhard Leberecht von Blücher.
- J. Rickard, Trachenberg Plan, 12 July 1813, History of War.
- Wikipedia contributors, Waterloo campaign: Ligny through Wavre to Waterloo.
登場する戦闘
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1806-10-14
イエナ=アウエルシュテットの二重会戦(1806年)— 決定的な戦いは、皇帝がいない方で起きた役割:騎兵(アウエルシュテット)
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1813-10-18
ライプツィヒの戦い(1813年)— 中心を握る天才が、連合の数に包み込まれた「諸国民の戦い」役割:シレジア軍(北・メッケルンで勝利)
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1815-06-18
ワーテルローの戦い(1815年)— 天才一人に依存したシステムが、冗長性を失って崩れた日役割:プロイセン軍総司令官(来援)