フランス · 第III軍団指揮官
ルイ=ニコラ・ダヴー

「鉄の元帥」と呼ばれた、ナポレオン軍で最も信頼された実行者である。規律と実務能力で群を抜き、皇帝が現場にいなくても単独で勝てた数少ない将軍だった。この一点が、彼をほかの元帥から分ける。
担っていた機能:冗長性
ナポレオンの方法は、皇帝一人が決定的な地点に居合わせることを前提に組まれていた。軍団制はその前提を緩めるための仕組みで、各軍団が数日は単独で戦えるように編成されている。だが仕組みがあっても、その仕組みを使いこなす指揮官がいなければ冗長性は生まれない。実際、独立指揮を任された元帥の多くは期待された成果を出していない。
ダヴーはその例外だった。厳格な規律で軍団の練度と補給を維持し、命令が届かない時間帯は自分の判断で埋める。派手さはないが、彼のいる方面だけは皇帝が心配しなくてよかった。第六次対仏大同盟戦争で連合軍が「本人がいる軍とは戦わない、元帥の軍を叩く」という規則を立てられたのは、裏を返せばダヴーのような実行者が例外にとどまっていたことを意味する。
規律は目的ではなく手段だった。1805年12月、第III軍団はウィーン方面から約110kmを48時間で踏破してアウステルリッツの戦場南端に到着している(距離と時間は史料により 110〜130km・48〜50時間の幅がある)[1]。移動できる速度は、平時の規律がそのまま形になったものである。
決定的だった場面:アウエルシュテット
1806年10月14日、イエナ=アウエルシュテットで皇帝は主戦場を取り違えた。イエナで戦っていたのはプロイセン軍の一部にすぎず、真の主力は北のアウエルシュテットにいる。そこにいたのは、ダヴーの第III軍団だけだった。
兵力は約2万6,000〜2万7,000に対し、敵は約5万〜6万4,000。倍以上の相手を、増援なしで撃退している[2]。ダヴー軍団の損害は約7,100に達したが、プロイセン軍の主力は総司令官ブラウンシュヴァイク公を失って崩れた[3]。皇帝は当初この報告を信じなかったと伝わる。設計者本人が想定していなかった水準で、設計どおりに動いた一日だった。
アウステルリッツでの役割も本質は同じである。南翼で敵主力の攻撃を受け止め続け、誘導の罠が成立する時間を作った。攻める役ではなく、崩れないことで他人の作戦を成り立たせる役である。1809年のエックミュールでも、到着した皇帝が決戦を組み立てられたのは、それまで軍団が持ちこたえていたからだった。
限界、あるいは終わり方
1813年末から翌1814年5月まで、ダヴーはハンブルクを守り抜いた。四度の攻撃を退け、開城したのは皇帝の退位を新政府が確認して直接命令を出したあとである[1]。生涯を通じて一度も敗れていない数少ない元帥だった。
そして1815年、百日天下で彼は陸相としてパリに留められ、戦場にはいなかった。ワーテルローで欠けていたものを一語で言うなら、それはダヴーである。冗長性は制度として引き継がれず、たまたま優れた人がいた期間として過ぎ去った——彼の経歴は、その事実の証明になっている。
出典
- Fondation Napoléon, Davout, Louis Nicolas.
- Encyclopædia Britannica, Louis-Nicolas Davout, duke of Auerstedt.
- J. Rickard, Battle of Auerstädt, 14 October 1806, History of War.
登場する戦闘
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1805-12-02
アウステルリッツの戦い(1805年)— 敵を動かして勝つ「状況設計」の最高傑作役割:第III軍団(右翼の鉄の盾)
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1806-10-14
イエナ=アウエルシュテットの二重会戦(1806年)— 決定的な戦いは、皇帝がいない方で起きた役割:第III軍団(アウエルシュテットを単独で制す)
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1807-02-08
アイラウの戦い(1807年)— ナポレオンの「方法」が初めて決着をもたらせなかった日役割:第III軍団(ロシア左翼を圧迫)
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1809-07-06
ワグラムの戦い(1809年)— ナポレオンの「方法」が芸術から消耗戦へ転回した日役割:第III軍団(決定打=墺左翼マルクグラーフノイジーデル)
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1812-09-07
ボロジノの戦い(1812年)— 史上最も血なまぐさい一日が、決定的勝利を生まなかった理由役割:第I軍団(左翼包囲を具申するも却下)