ロシア · 実戦指揮官
ミハイル・クトゥゾフ

片目を失った老将にして、ロシアの忍耐の体現者。アウステルリッツでは連合軍の前進布陣に反対したが、皇帝アレクサンドル1世に押し切られ、敗北の責めを負わされた。
雪辱は1812年に訪れる。ボロジノで死闘の末に陣地を明け渡し、続いてモスクワさえ放棄した——戦場で勝つことより、軍を保って戦役で勝つことを選んだのだ。守る対象を「土地」ではなく「軍」に置き換えたとき、占領は無意味化し、伸びきった補給線がフランス軍を内側から滅ぼした。
ただしこの深い後退戦略を始めたのはバルクライ・ド・トーリであり、クトゥーゾフはそれを引き継ぎ、退却の責めに耐えうる権威と忍耐でやり遂げた。彼の指揮は、ナポレオンの「一度の決戦で決める」方法に対する、最も有効な反証となった。
登場する戦闘
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1805-12-02
アウステルリッツの戦い(1805年)— 敵を動かして勝つ「状況設計」の最高傑作役割:名目総司令(実権剥奪)
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1812-09-07
ボロジノの戦い(1812年)— 史上最も血なまぐさい一日が、決定的勝利を生まなかった理由役割:ロシア軍総司令官