ロシア · 実戦指揮官

ミハイル・クトゥゾフ

ミハイル・クトゥゾフ
作者不詳《ミハイル・クトゥゾフ肖像》19世紀、油彩・カンヴァス。聖ゲオルギウス勲章の綬章を身に着けた軍装姿。Public Domain (米国 1931年以前公開), via Wikimedia Commons |参照

片目を失った老将にして、ロシアの忍耐の体現者。アウステルリッツでは連合軍の前進布陣に反対したが、皇帝アレクサンドル1世に押し切られ、敗北の責めを負わされた。

雪辱は1812年に訪れる。ボロジノで死闘の末に陣地を明け渡し、続いてモスクワさえ放棄した——戦場で勝つことより、軍を保って戦役で勝つことを選んだのだ。守る対象を「土地」ではなく「軍」に置き換えたとき、占領は無意味化し、伸びきった補給線がフランス軍を内側から滅ぼした。

ただしこの深い後退戦略を始めたのはバルクライ・ド・トーリであり、クトゥーゾフはそれを引き継ぎ、退却の責めに耐えうる権威と忍耐でやり遂げた。彼の指揮は、ナポレオンの「一度の決戦で決める」方法に対する、最も有効な反証となった。

登場する戦闘