ロシア · 実戦指揮官
ミハイル・クトゥゾフ

1812年にロシア軍の総司令官を務めた人物である。会戦の名手として語られることは少なく、実際ボロジノでも戦場を明け渡している。それでも彼は戦争に勝った。勝利条件が「敵軍を倒すこと」ではない側の戦い方を、最も明確に実行した司令官である。
1805年:反対した会戦
アウステルリッツで敗れた連合軍の名目上の司令官がクトゥーゾフである。ただし彼はこの会戦そのものに反対していた。1805年秋、ブラウナウからオルミュッツまで数百キロを退いて決戦を避け、増援との合流を優先している[1]。
12月2日に攻勢を命じたのはアレクサンドル1世で、慎重論は退けられた[1]。この一日は、彼が最も避けたかった種類の戦い方の見本になっている。7年後の判断は、ここから読むと一貫している。
担っていた機能:軍を消さない
1812年8月、退却を続けるバルクライ・ド・トーリに代わって総司令官に就いた。世論は決戦を求めており、就任は「戦う将軍」への期待だった。だが実際に彼が続けたのは、前任者が始めた方針の継承である——領土は渡してよい、軍は渡さない。
9月7日のボロジノで正面から受け止め、両軍あわせて7万を超える損害を出したのち、軍を保ったまま退いた。9月13日のフィリ軍議では、モスクワの放棄を決めている。首都を渡す判断は、勝利条件を「軍の存続」に置いていなければ下せない。
決定的だった場面:戦わないことで勝つ
モスクワ入城後の5週間、フランス軍は講和の返事を待ち続けた。返事は来ない。ロシア遠征で示したとおり、この戦争は勝利条件が非対称だった。戦場で勝っても、相手が「負けた」と認めなければ何も終わらない。
クトゥーゾフは南へ移動して補給線と兵力を回復し、退却するフランス軍を追いながら、決戦は避け続けた。無理に叩けば自軍も損耗し、勝利条件そのものを損なう。戦わないという判断を、勝てる状況でも維持できることが、この戦役での彼の中心的な技術だった。
側面へ動く
モスクワを明け渡したあと、クトゥーゾフは軍を南西のタルティノ方面へ移した。これは逃げるための移動ではない。南の穀倉地帯と兵器廠への道を自軍の側に置き、同時にフランス軍の退路の脇に居座る配置である。
結果として、モスクワを出たフランス軍は豊かな南方ルートを取れず、来たときに焼き払われた道を戻ることになった。会戦をせずに相手の選択肢を減らす——この一手が、退却を壊滅に変えた要因の一つである。
限界、あるいは終わり方
この慎重さは同時代でも批判された。もっと積極的に追撃していれば、フランス軍をさらに削れたという議論は当時からある。評価が割れること自体が、この戦い方の性質を示している——派手な決着がないため、成果が見えにくい。
1813年、ドイツへの進軍中に病を得て、4月28日に死去した[2]。第六次対仏大同盟戦争のトラッヘンベルク計画——「本人がいる軍とは戦わない」——は、彼の死の3か月後に成文化される。決戦を避けることが勝ち筋になるという発想は、1812年に先に証明されていた。
出典
- Encyclopædia Britannica, Mikhail Illarionovich, Prince Kutuzov.
- J. Rickard, Prince Mikhail Ilarionovich Kutuzov, 1745-1813, History of War.
- Adam Zamoyski, 1812: Napoleon's Fatal March on Moscow, HarperCollins, 2004.
登場する戦闘
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1805-12-02
アウステルリッツの戦い(1805年)— 敵を動かして勝つ「状況設計」の最高傑作役割:名目総司令(実権剥奪)
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1812-09-07
ボロジノの戦い(1812年)— 史上最も血なまぐさい一日が、決定的勝利を生まなかった理由役割:ロシア軍総司令官