フランス · 第V軍団指揮官
ジャン・ラン

前衛と突破を任され続けた元帥である。勇気だけの人物として語られやすいが、実際に評価されていたのは攻めどころを自分で判断できたことだった。皇帝が近くにいなくても、任せれば正しい場所を攻める——この層が厚いあいだ、方法は機能していた。
担っていた機能:判断のある突破
突破は、勇気があれば成立するものではない。どの地点を、いつ、どれだけの力で押すかを誤れば、部隊は正面の火力に溶ける。第一次イタリア戦役のころから、ランヌはこの判断を任される側にいた。
1806年のイエナでは前衛として高地に取り付き、後続が展開する足場を作った。1807年のフリートラントでは、劣勢のまま数時間ロシア軍を引きつけ、皇帝の主力が到着する時間を作っている。攻めることと、耐えて時間を作ることを、同じ人が使い分けていた。
軍団制が想定していたのはこういう指揮官である。仕組みを渡すだけでは足りず、渡された仕組みを自分の判断で動かせる人がいて初めて、分散した軍が一つの意思のように動く。
名を与えた会戦と、与えられなかった仕事
1800年6月9日のモンテベッロで、ランヌは数で劣る状況を持ちこたえて勝ち、この地名はのちに彼の称号となった[2]。マレンゴの5日前であり、あの戦役の前哨として機能した一戦でもある。
一方で、彼の経歴には華やかでない任務も多い。1808年末から1809年2月にかけてのサラゴサ包囲では、市街の一軒ずつを奪う戦いを指揮した[3]。機動で勝つ軍が、機動の効かない戦場でも人を必要とする——この時期の半島の戦いは、その事実を先に見せていた。
決定的だった場面:1809年5月
1809年5月21〜22日のアスペルン=エスリンクは、ナポレオンが初めて野戦で敗れた会戦である。ドナウ渡河中に浮橋を破壊され、渡り切った部隊が孤立した。ランヌはその戦場で砲弾により両脚に致命傷を負い、切断手術ののち5月31日に死去した[1]。元帥の戦死としては最初の例である。
第五次対仏大同盟戦争の記事でも触れているとおり、6週間後のワグラムにランヌはいない。1809年は方法が消耗戦へ転回した年であると同時に、それを実行してきた人間が欠け始めた年でもあった。
空いた穴は埋まらなかった
以後、同じ役割を同じ水準で担える指揮官は現れなかった。ベシエールが1813年に、ポニャトフスキが同年に失われ、ダヴーは1815年にパリへ回される。百日天下の時点で、1805年の顔ぶれはほとんど戦場にいない。
ランヌの死は、その名簿から最初に一行が消えた出来事だった。個々の戦死は偶然でも、補充されないことは構造の問題である。20年にわたり、この軍は実行の層の再生産に成功していない。
限界、あるいは終わり方
皇帝が遺体の前で涙を見せたという逸話は広く伝わるが、同時代の証拠の強さには幅がある。確かなのは、彼の死が単なる人材の損失ではなく、方法の前提の一部が欠けた出来事だったことである。
出典
- J. Rickard, Marshal Jean Lannes, 1769-1809, History of War.
- Napoléon & Empire, Jean Lannes, French Marshal.
- David G. Chandler, The Campaigns of Napoleon, Macmillan, 1966.
登場する戦闘
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1796-05-10
ロディの戦い(1796年)— 橋頭堡強襲と「小さな伍長」の誕生役割:第二波先頭
- 1800-06-14
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1805-12-02
アウステルリッツの戦い(1805年)— 敵を動かして勝つ「状況設計」の最高傑作役割:第V軍団(北翼)
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1806-10-14
イエナ=アウエルシュテットの二重会戦(1806年)— 決定的な戦いは、皇帝がいない方で起きた役割:第V軍団(イエナで先陣)
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1807-06-14
フリートラントの戦い(1807年)— 条件が戻ったとき、ナポレオンの「方法」は完成形に帰った役割:前衛(半日の拘束戦)