フランス · 騎兵指揮官
ジョアシャン・ミュラ

ナポレオン軍の騎兵を象徴する人物であり、ナポリ王でもあった。派手な軍装と突撃で知られるが、構造として見ると彼が担っていたのは勝ちを決定に変える機能である。崩れかけた敵をそのまま崩し切る仕事は、戦術ではなく速度の問題だった。
担っていた機能:追撃
会戦の勝敗は、しばしば「敵が退き始めた時点」では決まっていない。退いた軍が数日後に再編して戻ってくるなら、その勝利は戦争を動かさない。勝ちを決定に変えるのは、追撃の脚である。
騎兵はそのための機能だった。第三次対仏大同盟戦争や第四次対仏大同盟戦争で敵軍が軍として消えたのは、会戦の巧拙だけでなく、そのあと何日も追い続ける部隊がいたからである。ミュラは、この仕事を最も速く、最も遠くまでやる指揮官だった。
判断力より突進力が評価された人物ではある。だが突進が制度として組み込まれていたこと自体が、当時の他軍にはない強みだった。
決定的だった場面:アイラウの大突撃
1807年2月8日のアイラウで、吹雪のなかオージュロー軍団が壊滅し、中央に穴が空いた。ロシア歩兵が本営に迫るなか、ミュラは約1万700〜1万1,000騎を率いて約2.5kmの雪原を渡り、ロシアの砲列と歩兵二線を貫いて戻ってきた[1]。史上最大級の騎兵突撃の一つである。
注目すべきは、この突撃が勝つためではなく、崩壊を止めるために使われたことだ。決定を作る機能が、この日は延命に費やされている。アイラウが「方法が空転した最初の日」と呼ばれるのは、こうした転用が起きた日だからでもある。
機能が失われたあと
1812年のロシア遠征で、フランス軍は馬を約17万5,000頭失った。1813年、リュッツェンでもバウツェンでも勝ちながら敵軍を壊滅させられなかったのは、この損失が直接効いている[2]。追撃できない軍は、勝っても状況を改善できない。
ミュラ個人の技量ではなく、彼が代表していた機能が失われた——1813年以降の敗北を読むときは、この区別が要る。
王という別の利害
1808年、ミュラはナポリ王となった。ここから彼の立場は二重になる。皇帝の元帥として動くべき局面と、自分の王国を守るべき局面が、必ずしも一致しない。
1812年12月、皇帝がパリへ戻ったあと、残された軍の指揮はミュラに委ねられた。だが翌1813年1月、彼はその指揮をウジェーヌに引き渡してナポリへ帰っている[3]。与えられた地位が、忠誠と競合する利害を同時に与えていた。褒賞として王冠を配る制度は、こういう形で裏返る。
限界、あるいは終わり方
1814年、ナポリ王としての地位を守るためにミュラは連合国側と交渉し、皇帝から離れた。百日天下では復帰を申し出たが拒まれている。1815年10月13日、ナポリ奪回を試みて捕らえられ、カラブリアのピッツォで即席の軍事法廷にかけられ、その日のうちに銃殺された[3]。
戦場で最も速かった男が、政治的な選択では最も遅れた。速度は目的を選ばない——ミュラの経歴は、その両面を同じ強度で見せている。
出典
- Wikipedia contributors, Battle of Eylau.
- The Napoleon Series, Napoleon's Equine Strategy in 1813.
- Fondation Napoléon, Murat, Joachim.
登場する戦闘
- 1800-06-14
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1806-10-14
イエナ=アウエルシュテットの二重会戦(1806年)— 決定的な戦いは、皇帝がいない方で起きた役割:騎兵予備(追撃を指揮)
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1807-02-08
アイラウの戦い(1807年)— ナポレオンの「方法」が初めて決着をもたらせなかった日役割:騎兵予備(大突撃を指揮)
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1812-09-07
ボロジノの戦い(1812年)— 史上最も血なまぐさい一日が、決定的勝利を生まなかった理由役割:騎兵予備(親衛隊投入を進言)
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1813-10-18
ライプツィヒの戦い(1813年)— 中心を握る天才が、連合の数に包み込まれた「諸国民の戦い」役割:騎兵(南のワショーで大突撃)