フランス · 皇帝・総司令官
ナポレオン・ボナパルト

本サイトが扱う戦争の中心にいる人物である。ここでは伝記としてではなく、一つの方法と、その有効期限として整理する。彼が使った戦い方は天才の閃きではなく、いくつかの要素と、それが働くための条件からできていた。条件が一つずつ失われていく過程が、そのまま20年の戦争史になっている。
1. 台頭:1769年から1796年まで
コルシカの小貴族の家に生まれ、本土の幼年学校を経てパリの士官学校へ進む。1785年9月に卒業し、16歳で砲兵少尉としてラ・フェール連隊に任官した[1]。革命がなければ、地方の砲兵将校として終わっていた経歴である。
転機は1793年のトゥーロン攻囲だった。港を見下ろす高地を制圧すれば英西艦隊は退かざるを得ない——この一点を突く砲兵配置を立案して実行し、24歳で旅団将軍に昇進する[1]。1795年10月5日(ヴァンデミエール13日)にはパリの王党派蜂起を鎮圧し、政府の側から見て「使える軍人」の地位を確保した。
そして1796年3月、26歳でイタリア方面軍を引き継ぐ。装備も給与も欠いた、当時のフランスで最も評価の低い軍だった。ここから19か月で第一次イタリア戦役を戦い抜き、オーストリアを講和の席に着かせている。
2. 方法の四要素
内線・中心位置
分かれて来る敵の内側に入り、順に叩いて接触の瞬間だけ多数を作る。1796年の北イタリアで確立し、1815年まで同じ図面が使われた。
軍団制
各軍団が数日は単独で戦える編成。分散して進み、決戦の場で集まる。一人が全部を見なくてよい構造——ただし使いこなす指揮官が要る。
四つの詳しい解説はナポレオンの戦術にまとめている。
3. 戦場の外側
軍事の人として語られやすいが、統治者としての仕事も方法の一部だった。1804年3月に公布された民法典(ナポレオン法典)は、法の下の平等・所有権・契約の自由を成文化し、19世紀のヨーロッパ各国の民法に影響を与えている[2]。行政区画と税制、教育制度の整備も同じ時期に進んだ。
この二面は無関係ではない。征服した土地に制度を敷けたことが、次の戦争の兵と金を生んだ。同時に、制度を敷くほど各地の反発も育つ。半島戦争でもロシアでも、抵抗の核になったのは「占領されること」そのものだった。
4. 神話と実像
マレンゴ(1800年6月14日)は、敗北寸前で覆った危うい勝利だった。戦線を救ったのは、砲声を聞いて独断で引き返したドゼーの反撃と、それに続くケラーマンの騎兵突撃である。だが公式報告は版を重ねるごとに偶然の要素が減り、最初から計画された勝利へ寄っていった[4]。
この書き換えを「嘘」と呼ぶのは易しいが、構造としてはもう少し込み入っている。クーデタで得た地位は勝利によってしか裏づけられず、しかも他人の勝利では代わりにならない。物語の設計は、権力の形式が要求していた仕事でもあった。詳しくは第二次対仏大同盟戦争で扱っている。
5. 方法が働くための四つの前提
要素より重要なのは前提である。この方法は、次の四つが揃っているあいだだけ機能した。
第一に追撃できること。勝ちを決定に変えるのは騎兵の脚だった。ロシア遠征で馬を約17万5,000頭失って以降、勝っても敵軍が壊れなくなる[3]。
第二に実行する層がいること。構想を命令に変え、現場で判断する人々である。ランヌは1809年、ベシエールは1813年に戦死し、ベルティエは1815年6月1日に死去した。百日天下の時点で、この層はほとんど空になっている。
第三に相手が戦いの場に出てくること。誘導も集中も、敵が能動的に動くことを前提にしている。1813年7月のトラッヘンベルク計画は「本人がいる軍とは戦わない」という一行でこの前提を外した[5]。
第四に損失を補充できること。ライプツィヒでは連合軍が日ごとに増え、こちらの増援はわずかだった。互角の消耗戦は、補充できる側が勝つ。
6. 会戦の記録から読めること
| 年 | 会戦 | 結果 | この一日が示すもの |
|---|---|---|---|
| 1796 | ロディ | 勝利 | 行動と物語を同時に設計する方法の芽 |
| 1800 | マレンゴ | 辛勝 | 偶然の勝利が公報で計画に書き換わる |
| 1805 | アウステルリッツ | 大勝 | 四つの要素が同時に働いた最良の例 |
| 1806 | イエナ=アウエルシュテット | 大勝 | 皇帝が主戦場を誤っても軍団制が支えた |
| 1807 | アイラウ | 引き分け | 方法が決定をもたらさなかった最初の日 |
| 1807 | フリートラント | 大勝 | 火力を主役に据える運用への転回点 |
| 1809 | ワグラム | 勝利 | 機動の芸術から物量の押し合いへ |
| 1812 | ボロジノ | 戦場を制圧 | 勝っても相手の負けにならない構図 |
| 1813 | ライプツィヒ | 敗北 | 数が方法を上回った日 |
| 1815 | ワーテルロー | 敗北 | 構想は通り、実行が届かなかった |
並べると、負け始めるより先に勝ち方の性質が変わっているのが分かる。1807年のアイラウで決定が生まれなくなり、1809年のワグラムで損害比が互角になり、1812年のボロジノで戦場を制しても何も決まらなくなった。敗北はその後から来ている。
7. 終わり方
1814年3月31日にパリが落ち、4月6日に退位してエルバ島へ送られた。翌1815年3月に島を脱して復位するが、6月18日のワーテルローののち、22日に再び退位する[2]。南大西洋のセントヘレナ島へ流され、1821年5月5日に51歳で死去した。
島での6年間に口述された回想は、それ自体が最後の「物語の設計」だった。ロディで自分の運命を悟った、という有名な述懐も同時代の証拠を欠く。戦場の仕事が終わったあとも、記録の仕事だけは続いていた。
8. どう読むか
この人物の評価が難しいのは、方法の設計者と、方法の限界を作った人が同一であるためだ。軍団制という冗長性を設計しながら、判断そのものは委譲しなかった。褒賞として王冠を配りながら、その王冠が忠誠と競合する利害を生んだ。物語で権力を支えながら、その権力は勝ち続けることでしか維持できなくなった。
本サイトは、これを天才の物語としてではなく再現可能な構造とその条件として読む。条件を書き出せば、同じ方法が別の場所で効くかどうかを検討できる。1796年から1815年までの八つの戦争は、その条件が一つずつ失われていく順序として並べられる。
出典
- Wikipedia contributors, Napoleon.
- Encyclopædia Britannica, Napoleon I, Emperor of France.
- The Napoleon Series, Napoleon's Equine Strategy in 1813.
- The Napoleon Series, Marengo 1800: A Lost Account.
- J. Rickard, Trachenberg Plan, 12 July 1813, History of War.
- David G. Chandler, The Campaigns of Napoleon, Macmillan, 1966.
- Andrew Roberts, Napoleon: A Life, Allen Lane / Penguin, 2014.
登場する戦闘
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1796-05-10
ロディの戦い(1796年)— 橋頭堡強襲と「小さな伍長」の誕生役割:総司令官(砲兵配置を直接指揮)
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1800-06-14
マレンゴの戦い(1800年)— 敗北寸前の勝利を「計画された罠」に書き換えた日役割:第一統領・実質総司令
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1805-12-02
アウステルリッツの戦い(1805年)— 敵を動かして勝つ「状況設計」の最高傑作役割:皇帝・総司令
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1806-10-14
イエナ=アウエルシュテットの二重会戦(1806年)— 決定的な戦いは、皇帝がいない方で起きた役割:皇帝・イエナを指揮
- 1807-02-08
- 1807-06-14
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1809-07-06
ワグラムの戦い(1809年)— ナポレオンの「方法」が芸術から消耗戦へ転回した日役割:皇帝・総司令
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1812-09-07
ボロジノの戦い(1812年)— 史上最も血なまぐさい一日が、決定的勝利を生まなかった理由役割:皇帝・総司令(親衛隊を投入せず)
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1813-10-18
ライプツィヒの戦い(1813年)— 中心を握る天才が、連合の数に包み込まれた「諸国民の戦い」役割:皇帝・総司令(中心位置を保持・包囲される)
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1815-06-18
ワーテルローの戦い(1815年)— 天才一人に依存したシステムが、冗長性を失って崩れた日役割:皇帝・総司令(中心位置の設計者)