フランス · 第VI軍団指揮官
ミシェル・ネイ

「勇者の中の勇者」と呼ばれた元帥である。前線での勇気は疑いようがなく、それが最も価値を発揮したのは撤退という最も難しい局面だった。だが同じ資質は、独立指揮と大会戦では逆に働く。ネイは、勇気が長所にも短所にもなることを示す人物である。
担っていた機能:最後尾で持ちこたえる
軍が崩れるのは戦っているときではなく、退いているときである。後衛は追撃を受け止めながら本体を逃がす役で、勝ち目のない戦闘を毎日繰り返すことになる。そこで必要なのは構想力ではなく、兵の前に立ち続けられることだった。
1812年のロシア遠征の退却で、ネイはこの役を担い切った。ベレジナ渡河を含む数週間、追撃と寒気のなかで最後尾を維持し、ロシアの地を最後に離れたフランス兵だったと伝えられる[1]。誇張を含む語りではあるが、軍が消滅していく過程で最後まで機能した部隊が彼の指揮下にあったことは動かない。
この評判は以後の失敗をもってしても消えなかった。目に見える勇気は、見えにくい失敗より強く記憶される。
前に出る役としての強さ
この資質は退却だけのものではない。1805年10月14日、ドナウ川の渡河点エルヒンゲンを強襲して橋頭堡を確保した働きは、ウルムでのオーストリア軍降伏に直結した。のちに与えられた称号は、この一日に由来する[1]。
1807年のフリートラントでも、ロシア軍左翼への攻撃を担って決着に加わっている。1812年のボロジノでは、南のフレーシュをめぐる数時間の消耗戦をダヴーとともに引き受けた。正面から押し込む役では、彼を上回る者はいない。問題は、その役を自分で選べる立場に置かれたときに起きた。
決定的だった場面:独立指揮での崩れ
同じ資質が、別の局面では裏目に出る。1813年9月6日のデンネヴィッツで、ネイが単独で指揮した軍は敗れた。この年、皇帝本人が指揮した会戦はほぼ勝ち、元帥の単独指揮はほぼ負けている——連合軍のトラッヘンベルク計画は、まさにその分布を利用する規則だった[2]。
1815年6月16日のカトル・ブラでは、優勢な時間帯に決着をつけられず、増援も届かないまま夕刻を迎えた。2日後のワーテルローでは、歩兵と砲兵の支援を欠いた大規模な騎兵突撃を繰り返し、方陣に砕かれている。前に出る決断は速く、諸兵科をまとめる作業は遅い。これが独立指揮での一貫した傾向だった。
立場の反転
1814年4月、退位を迫る元帥たちの先頭に立ったのはネイである[3]。翌1815年3月10日には、ルイ18世に「あの男を鉄の檻に入れて連れ帰る」と約束して6,000の兵とともにパリを発ち、一週間と経たずに皇帝の側へ移った[3]。
この振れ幅を裏切りとだけ読むと、構造を見落とす。彼は一貫して目の前の場面に全力で反応する人だった。戦場でそれは美徳になり、政治的な選択では致命傷になる。
限界、あるいは終わり方
1815年8月3日に逮捕され、12月6日に貴族院で有罪、翌7日に銃殺された[1]。目隠しを拒み、自ら発射の号令をかけたと伝わる。
勇気は測りやすく、判断は測りにくい。ネイの経歴が示すのは、測りやすい資質だけで人を配置すると、測りにくい仕事のほうが空くという構造である。百日天下で欠けていたのは、勇者ではなかった。
出典
- Encyclopædia Britannica, Michel Ney.
- J. Rickard, Trachenberg Plan, 12 July 1813, History of War.
- Fondation Napoléon, Ney, Michel.
登場する戦闘
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1806-10-14
イエナ=アウエルシュテットの二重会戦(1806年)— 決定的な戦いは、皇帝がいない方で起きた役割:第VI軍団(イエナ)
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1807-02-08
アイラウの戦い(1807年)— ナポレオンの「方法」が初めて決着をもたらせなかった日役割:第VI軍団(夕刻に到着)
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1807-06-14
フリートラントの戦い(1807年)— 条件が戻ったとき、ナポレオンの「方法」は完成形に帰った役割:第VI軍団(決定打=バグラチオン左翼)
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1812-09-07
ボロジノの戦い(1812年)— 史上最も血なまぐさい一日が、決定的勝利を生まなかった理由役割:第III軍団(フレーシュへの突撃)
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1813-10-18
ライプツィヒの戦い(1813年)— 中心を握る天才が、連合の数に包み込まれた「諸国民の戦い」役割:北翼(ブリュッヒャー・ベルナドットに対峙)
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1815-06-18
ワーテルローの戦い(1815年)— 天才一人に依存したシステムが、冗長性を失って崩れた日役割:戦術指揮(無連携の騎兵突撃)