フランス · 第IV軍団指揮官

ジャン=ド=デュー・スールト

ジャン=ド=デュー・スールト
ルイ=アンリ・ド・リュデール(ジャン・ブロック原画の模写)《ニコラ・ジャン=ド=デュー・スールトの肖像》1856年、油彩・カンヴァス 215×140cm、ヴェルサイユ宮殿所蔵。Public Domain, via Wikimedia Commons |参照

アウステルリッツで中央突破を実行した軍団長であり、半島戦争を長く戦い、1815年には参謀総長を務めた。ナポレオン麾下で最も長く重い任務を担い続けた一人である。この人物が示すのは、同じ人間でも、置かれる職務によって結果が変わるという単純で見落とされやすい事実だった。

生没
1769年3月29日 — 1851年11月26日南仏の公証人の家に生まれる
地位
元帥(1804年)・ダルマチア公のちフランス首相を三期
本サイトでの位置づけ
職務との適合が結果を決めた例実行者としては最良、参謀総長としては不慣れ

担っていた機能:計画の実行

1805年12月2日、アウステルリッツの中央突破を担ったのがスールトの第IV軍団だった。プラッツェン高地が空くのを霧の中で待ち、時機が来た瞬間に斜面を駆け上がる。待つことと、待つのをやめることの両方が、命令どおりに実行された。

この会戦の設計は、敵が高地から降りてくることを前提にしている。前提が現実になるまで動かず、なった瞬間に全力で動く——構想の質がそのまま結果になるのは、この種の実行者がいる場合だけである。誘導の巧みさばかりが語られるが、設計は実行の精度に依存していた。

もう一つの戦争:半島戦争

1808年以降、スールトはイベリア半島で長期の戦いを担った。ここでの評価は分かれる。勝ち星もあれば、退却も撤退もある。ただしこの戦域は性質が違った。決戦で終わらせられる相手ではなく、占領しても抵抗が終わらない戦争である。

ロシア遠征で顕在化する「戦場で勝っても相手の負けにならない」構図は、半島で先に現れていた。スールトの経歴は、その長い消耗の記録でもある。

半島での戦いは、決戦型の軍にとって不慣れな種類の消耗だった。1809年5月のオポルトではウェルズリー(のちのウェリントン)に不意を突かれて渡河を許し、砲と輜重を捨てて山中を退いている[3]。1814年4月10日のトゥールーズが、この戦域での最後の会戦になった。

数年にわたり同じ相手と戦い続けた経験は、フランス側では稀である。短期決戦の設計に長けた軍が、長期戦の運用をほとんど持っていなかったことが、この戦域では露わになった。

決定的だった場面:合わない職務

1815年、百日天下でスールトは参謀総長に任じられた。ベルティエが6月1日に死去したためである。軍団を率いる能力と、命令を正確に配る能力は別物だった。

6月16日、デルロンの第I軍団 約2万が、皇帝の命令とネイの取り消し命令のあいだで往復し、カトル・ブラにもリニーにも参加しないまま一日を終える[2]。命令系統の整理は参謀総長の職務であり、この人事はその職務に不向きな人を置いた形になった。

責めるべきは個人ではなく配置である。優秀な人を空いた席に入れれば埋まる、という前提そのものが誤っていた。

限界、あるいは終わり方

軍歴のあとの人生が長いのも、この人物の特徴である。復古王政と七月王政の下で陸相を務め、ルイ=フィリップのもとで三度にわたり首相を務めた(1832〜34年、1839〜40年、1840〜47年)[1]。1851年、82歳で没している。

同時代の元帥の多くが戦場か銃殺刑で終わったことを考えると、この長さ自体が一つの資質を示している。

出典

  1. Encyclopædia Britannica, Nicolas-Jean de Dieu Soult, duke de Dalmatie.
  2. The Napoleon Series, The Key to Victory: General d'Erlon's I Corps, 16 June 1815.
  3. J. Rickard, Marshal Nicholas Jean de Dieu Soult, duc de Dalmatie, History of War.

登場する戦闘