第一次イタリア戦役

1796–1797 · イタリア

第一次イタリア戦役

ルイ=フランソワ・ルジュン《ロディの戦い、1796年5月10日》1804年、油彩・カンヴァス。ヴェルサイユ宮殿所蔵。Public Domain, via Wikimedia Commons

1796年3月、26歳の将軍がイタリア方面軍を引き継いだ。給与も靴も欠いた、フランスで最も評価の低い軍だった。1年半後、彼はオーストリアを講和の席に着かせ、第一次対仏大同盟を崩している。この戦役で発明されたのは戦術ではない。勝利を、本国が手放せなくなる資本に換える回路である。

期間
1796年3月 — 1797年10月着任から講和まで約19か月
戦域
北イタリア(ピエモンテ〜ロンバルディア〜ヴェネト)アルプスとアペニンに挟まれた回廊
交戦勢力
フランス vs オーストリア・サルデーニャ第一次対仏大同盟のイタリア戦線
結末
フランスの勝利→ カンポ・フォルミオ条約・第一次対仏大同盟の崩壊

1. この戦争は何を賭けていたか

パリの総裁政府にとって、イタリアは助攻の戦場だった。主戦場はドイツであり、イタリア方面軍は敵の兵力を南に引きつけておくための駒に過ぎない。予算も増援も後回しになる。

その軍の実体は、1796年3月の時点で約3万7,600人と砲60門[5]。給与は数か月滞り、届いてもmandats territoriauxという紙屑同然の証券だった[2]。政府の側に、与えられるものが何も残っていなかった。

だからこの戦役で本当に賭けられていたのは、北イタリアの領土ではない。本国と前線のどちらが、どちらを必要とする側になるかだった。何も与えられない政府は、何も要求できない。この非対称に最初に気づいたのが、26歳の司令官だった。

2. 数で劣る側の算術

外線から分かれて来る側と、内線で分かれなかった側の比較。合計では劣勢でも接触の瞬間は多数になる
図:合計の兵力ではなく、接触の瞬間の兵力を数える。これが数で劣る側の算術である。

やり方そのものは単純だった。敵が分かれているうちに、こちらは分かれない。相手の二つの隊が合流する前に内側から一方へ向かい、片付けてから向きを変えてもう一方に当たる。合計では負けていても、当たる瞬間はいつもこちらが多い。

開戦から3週間で、この算術は最初の成果を出す。4月12日のモンテノッテでオーストリア軍とピエモンテ軍の接合部を割り、以後ミレジモ、デーゴ、モンドヴィと続けて叩いて、4月28日にはサルデーニャ王国をケラスコ休戦で戦争から脱落させた[8]。五度の戦闘で、敵の同盟から一国を外している。

5月10日のロディの戦いは、規模で言えばこの流れの一挿話でしかない。正午の到着から夕方の決着まで6時間半、決定的な橋頭堡強襲は実質30分だった[3]。それでも本人が後年「ここで私は自分の運命を悟った」と語ったのは、戦果ではなく、この一戦を境に軍の中で生まれた呼び名のためである。

第1回救援(1796年7〜8月)

墺 約 1.3 倍

仏

約 37,600包囲部隊を含む方面軍の全兵力

墺

約 50,000湖の東 約3.2万・西 約1.8万に二分。史料により4.9〜6万

リヴォリ(1797年1月14〜15日)

墺 約 1.2 倍

仏

約 23,000高地に先回りして集中

墺

約 28,000損害 約1.4万(うち捕虜 約1.2万)

四度の救援すべてで数は敵が上回り、四度とも敗れている。兵力の合計は、この戦役の結果をまったく説明しない。

3. マントヴァという磁石

マントヴァ救援四回の一覧。毎回複数の縦隊に分かれて進み、毎回合流前に各個撃破された
図:四度の救援は、時期も指揮官も違う。分かれ方だけが同じだった。

1796年6月4日に始まったマントヴァ要塞の封鎖は、翌1797年2月2日の開城まで続く[4]。この要塞が戦役の形を決めた。オーストリアは要塞を見捨てられず、救援軍を送り続けるほかない。包囲は攻める側の負担であると同時に、敵を呼び寄せる磁石でもある。

呼び寄せられた四つの軍は、いずれも複数の縦隊に分かれて到着した。山と湖に隔てられた別々の谷を進むため、合流するまで互いを助けられない。ヴルムザーは第1回でガルダ湖の東西に軍を割り、8月3日のロナートと5日のカスティリオーネで順に叩かれた[6]。9月の第2回ではアディジェ谷とブレンタ谷に分かれ、8日のバッサーノで敗れている[5]。

11月のアルヴィンツィはフリウリ方面の約2万8,000とチロル方面の約1万7,000〜2万で挟み込む計画を立てたが、両者の歩調が合わず、アルコレで先に一方を退けられた[5]。翌1月の第4回も本隊とプロヴェラの別動隊に分かれ、リヴォリで本隊が壊滅、プロヴェラ隊は16日に降伏している[4]。

リヴォリの戦いを描いた歴史画
アンリ=フェリックス=エマニュエル・フィリポトー《リヴォリの戦い(1797年1月14日)》1844年、油彩・カンヴァス 465×543cm、ヴェルサイユ宮殿「戦闘の回廊」所蔵。七月王政期に国家が発注した戦勝画連作の一枚。Public Domain, via Wikimedia Commons

フランス側(1796年4月時点の年齢)

オーストリア側(各自の登場時点の年齢)

救援に来て、籠城の口を増やした男

第2回救援でバッサーノに敗れたヴルムザーは、退路を断たれてマントヴァへ逃げ込んだ。救援に来た将軍が守備隊に加わり、要塞の兵力は約1万4,000から約3万に増えている[4]。だが増えたのは戦力ではなく食糧を消費する口だった。開城の日、行軍できる状態だったのは約1万6,000。包囲と籠城のあいだに戦闘と病で失われたのは1万6,333人と記録されている[4]。救おうとして送ったものが、そのまま要塞の寿命を縮めた。

4. 勝利を資本に換える回路

戦場の勝利が徴発と送金を生み、破産状態の政府が前線に依存し、指揮官の裁量が広がっていく循環図
図:この回路は一周するたびに強くなる。戦場の勝ち方は、その入口にすぎない。

勝てば占領地から取れる。ミラノとパルマ・モデナ両公国から徴収した額は2,000万フランに達し、1793年以来はじめて、イタリア方面軍は現金で給与を受け取った[2]。同時に絵画約200点と彫刻約100点がパリへ送られている[2]。破産状態の政府に対して、前線が現金と美術品を供給する側に回った。

送られたのは金だけではない。ロディの後に軍の中で生まれた「小さな伍長」という呼び名は、兵と同じ危険を分かち合う指揮官という像を定着させた。1796年11月のアルコレでは橋上に旗を掲げた場面が語り継がれ、グロの絵によって英雄像の原型になる。戦場での行動と、それを語る言葉が、同じ方向を向いている。

アルコレ橋のボナパルトを描いた肖像画
アントワーヌ=ジャン・グロ《アルコレ橋のボナパルト》1796/1801年、ルーヴル美術館所蔵。旗を掲げて橋を駆ける若き将軍という図像は、この戦役のあいだに作られた。Antoine-Jean Gros, Bonaparte on the Bridge at Arcole. Public Domain, via Wikimedia Commons

語りは偶然に任されてもいない。1797年7月20日に創刊されたCourrier de l'Armée d'Italieをはじめ、この戦役の司令官は自前の新聞を持ち、パリへ送った。抜粋は本国の一般紙に転載され、成功が強調され、失敗は扱われない[7]。金の流れと物語の流れが、同じ経路でパリに届いていた。

5. この戦役を決めた四つの要素

01

敵が毎回分かれて来た

四度の救援はすべて複数縦隊で、山と湖に隔てられていた[4]。合流するまで互いを助けられない配置を、相手のほうから毎回差し出している。

02

こちらは分かれなかった

包囲を解いて攻城砲を捨ててでも、野戦軍を一つに保った[6]。設備より集中を選ぶという判断が、局所の多数を作り続けた。

03

軍が自分で食えた

現地からの徴発は、倉庫と補給線への依存を切る。本国の兵站を待たない軍は速い。速さがそのまま、敵が合流する前に到着する能力になった。

04

金と物語が同じ経路で届いた

現金・美術品・公報が同時にパリへ流れた[2][7]。戦果を政治的な資本に換える経路を、指揮官自身が握っていた。

6. もし条件が違っていたら

以下は史料に基づく思考実験であり、帰結は実証不可能である。要素間の依存関係を可視化する目的で示す。

変えた条件直接の帰結戦役全体への影響
A:第1回救援でも包囲を解かなかった 攻城砲列は残るが、野戦軍は二正面に割れる 局所の多数が作れなくなる。要塞を得るために野戦を失う形になった可能性が高い
B:救援軍が一つにまとまって来た 接触の瞬間も敵が多数になる 内線の算術が成立しない。ただしオーストリアの指揮系統は分進を好み、四度とも同じ選択をした
C:徴発せず、本国からの補給を待った 行軍速度が落ち、給与は紙のまま 戦場の結果より先に、パリへ送る現金が生まれない。回路そのものが回らなくなる

三つのうち C だけが、戦場の勝敗を変えずに帰結を変える。この戦役の決定的な部分は、戦術の外側にあった。

7. 戦略的帰結:将軍が外交を握る

1797年4月18日のレオーベン仮条約、そして10月17日のカンポ・フォルミオ条約で戦争は終わった[1]。注目すべきは条項ではなく、誰が交渉したかである。4月のケラスコ休戦から最終条約まで、条件を詰めて署名したのは現地の司令官だった。千年以上続いたヴェネツィア共和国の処分も、その判断の内側で決まっている。

総裁政府はこれを追認するしかない。追認するしかない状態を作ったのは、戦場の勝利そのものではなく、勝利を現金と世論に換え続けた回路のほうだった。ここで確立された関係が、2年後に政府の側を退場させる。

この方法は次の第二次対仏大同盟戦争でさらに露骨な形を取る。マレンゴは敗北寸前で覆った危うい勝利だったが、公報がそれを計画された勝利へ書き換えた。そして第三次対仏大同盟戦争のアウステルリッツで、戦場の側の方法も完成する。

8. 現代への示唆

(1)資源をもらえない立場は、資源を供給する立場に変えられる。 予算も人も回ってこない部門が、要求を通すために本社を説得しようとしても順番は変わらない。この戦役が示すのは別の道筋で、本社が必要とするもの(現金・実績・語れる物語)を先に供給する側になると、要求が要求として扱われるようになる。順序が逆になっている点が重要で、裁量は要求して得るものではなく、依存の結果として渡ってくる。

(2)相手が多正面で来るなら、こちらは一つに絞るだけで局所の多数が作れる。 競合が複数の製品を同時に展開している市場では、全部に対応しようとした瞬間にこちらも分かれる。四度の救援が示したのは、分かれた側は合流するまで互いを助けられないという単純な事実である。全体の規模で負けていても、当たる場所を一つに選べば、その場所では勝てる。

9. 結語

第一次イタリア戦役は、無名の将軍が有名になった戦役として語られることが多い。だが構造として見ると、起きたのは名声の獲得ではなく力関係の逆転である。何も与えられない政府と、何も持たない軍。その組み合わせから始めて、19か月後には政府の側が前線を手放せなくなっていた。

勝ち方を発明した戦役ではなく、勝利の使い道を発明した戦役だった。戦場の算術——分かれた敵を順に叩く——は、その回路を回すためのエンジンにすぎない。エンジンだけを取り出して眺めても、この18か月がなぜ一人の人間を国家の中心に押し上げたかは説明できない。

次は第二次対仏大同盟戦争。この回路が、権力そのものに直結する。

出典

  1. David G. Chandler, The Campaigns of Napoleon, Macmillan, 1966.
  2. Andrew Roberts, Napoleon: A Life, Allen Lane / Penguin, 2014.
  3. Encyclopædia Britannica, Battle of Lodi.
  4. Wikipedia contributors, Siege of Mantua (1796–1797).
  5. J. Rickard, Napoleon's Campaign in Italy, 1796-97, History of War, 2009.
  6. Harrison W. Mark, Battle of Castiglione, World History Encyclopedia, 2023.
  7. Wayne Hanley, The Genesis of Napoleonic Propaganda, 1796-1799, Columbia University Press / Gutenberg-e, 2005.
  8. J. Rickard, Armistice of Cherasco, 28 April 1796, History of War, 2009.

この戦争・戦役の分析記事

よくある質問

1796年3月から1797年10月まで、ナポレオンがイタリア方面軍を率いて北イタリアのオーストリア軍とサルデーニャ軍を破った戦役です。カンポ・フォルミオ条約で終結し、第一次対仏大同盟が崩れました。着任時のナポレオンは26歳、無名の将軍でした。

接触の瞬間に多数を作ったからです。オーストリア軍は山と湖に隔てられた別々の谷を複数の縦隊で進み、合流するまで互いを助けられません。フランス軍は分かれず、内側から一方を叩いてから向きを変えてもう一方に当たりました。戦役全体の合計では約5万対約3万7,600で劣勢です。

この要塞が戦役の形を決めたからです。オーストリアは要塞を見捨てられず、1796年7月から1797年1月までに四度の救援軍を送りました。四度とも複数縦隊に分かれて来て、四度とも合流前に各個撃破されています。1797年2月2日の開城で、オーストリアのイタリア防衛は崩れました。

第1回(ヴルムザー・約5万)はロナート8月3日とカスティリオーネ8月5日、第2回(同・約3.5万)はバッサーノ9月8日、第3回(アルヴィンツィ)はアルコレ11月15〜17日、第4回(同・約2.8万)はリヴォリ1797年1月14〜15日で決着しました。第2回のヴルムザーは逆にマントヴァへ逃げ込み、守備隊の食糧を消費する側になっています。

規模は小さく、正午の到着から夕方の決着まで6時間半、決定的な橋頭堡強襲は実質30分でした。有名なのは戦果ではなく、この一戦を境に軍の中で「小さな伍長」という呼び名が生まれ、兵と危険を分かち合う指揮官という像が定着したためです。本人も後年この日を転機として語っています。

ミラノとパルマ・モデナ両公国から約2,000万フランが徴収され、イタリア方面軍は1793年以来はじめて現金で給与を受け取りました。余剰の現金と、絵画約200点・彫刻約100点がパリへ送られています。破産状態だった総裁政府にとって、前線が供給する側に回った形です。

戦場での行動と、それを語る言葉を同じ方向に向けたことです。公報に加えて、1797年7月創刊のCourrier de l’Armée d’Italieなど自前の新聞を持ち、パリへ送りました。抜粋は本国の一般紙に転載され、成功が強調され失敗は扱われません。現金と物語が同じ経路で首都に届いていました。

ケラスコ休戦からカンポ・フォルミオ条約まで、交渉と署名を現地の司令官が行いました。総裁政府は追認するしかありません。ここで確立した関係が第二次対仏大同盟戦争でさらに露骨になり、マレンゴの危うい勝利を公報が計画された勝利へ書き換えることになります。

今後追加予定の会戦

この戦争・戦役に含まれるが、まだ記事化していない会戦。

  • モンテノッテの戦い (1796)
  • ミレジモの戦い (1796)
  • デーゴの戦い (1796)
  • モンドヴィの戦い (1796)
  • カスティリオーネの戦い (1796)
  • バッサーノの戦い (1796)
  • アルコレの戦い (1796)
  • リヴォリの戦い (1797)
  • マントヴァ包囲戦 (1796)