1809年5月、アスペルン=エスリンクでナポレオンは初めて野戦に敗れた。6週間後、同じ川の同じ区域から出直したワグラムで勝ち返している。だが勝ち方が変わった。この年を境に、敵を動かして勝つ戦争が、火力と数で押し合う戦争へ変質していく。
1. この戦争は何を賭けていたか
オーストリアは1805年の敗戦から立ち直り、軍を作り直していた。スペインにフランス軍主力が拘束されている隙を突く——それが1809年の開戦判断である[2]。
賭けられていたのは、当たり前だが見落とされやすい一点だった。相手も学習する。第三次対仏大同盟戦争で誘導に嵌ったオーストリア軍は、同じ手には二度乗らない。方法は古びていないのに、方法が効く条件のほうが変わっていた。
2. 相手も学習する
フランス側
-
総司令
ナポレオン (皇帝・39歳) -
第II軍団
ウディノー (ランヌ戦死後に軍団を継承)
オーストリア側
カール大公は決戦を急がず、不利な地形では戦わず、渡河点という弱い環を狙うようになった[4]。誘導は敵の能動性に依存する。動く前に考え直す相手には、餌が効かない。
この会戦に、ランヌはいない
ワグラムの記述でしばしば混同されるが、ランヌはこの会戦に参加していない。6週間前のアスペルン=エスリンクで重傷を負い、戦死している[1]。1809年は、方法だけでなくそれを実行してきた人間も欠け始めた年だった。この欠落が決定的な形をとるのは、6年後の百日天下である。
3. 同じ川を二度渡る
5月の敗北は、ドナウ渡河中に浮橋を破壊されたことで起きた。増援も弾薬も届かず、渡り切った部隊が孤立する。方法の失敗ではなく、方法の前提(部隊を集中できること)が断たれた結果である[3]。
7月のワグラムの戦いでは、その前提が作り直された。ロバウ島を要塞に変え、橋を架け直し、渡河そのものを作戦の一部として設計している[5]。同じ川、同じ相手、同じ方法。変えたのは条件だけで、結果が反転した。
4. 勝ち方が入れ替わった
兵力(2日目正午までの投入)
仏 約 1.25 倍
損害(戦死・負傷・捕虜)
双方 ほぼ互角
アウステルリッツがメスなら、ワグラムはハンマーだった。決め手になったのは巧みな機動ではなく、中央に集中させた約112門の砲と、消耗を受け入れた押し込みである[1]。しかもオーストリア軍主力は壊滅せず、秩序を保って退いた。
5. 転回を決めた四つの要素
戦場が大きくなりすぎた
両軍あわせて30万を超える規模では、一点を突いて全体を崩す構図が成立しにくい。規模そのものが、機微な設計を鈍らせる。
6. もし5月の渡河が成功していたら
以下は史料に基づく思考実験であり、帰結は実証不可能である。要素間の依存関係を可視化する目的で示す。
| 変えた条件 | 直接の帰結 | 戦争全体への影響 |
|---|---|---|
| A:5月に浮橋が保たれ、渡河が完了する | 孤立が起きず、初の野戦敗北という記録も生まれない | ただし相手は同じカール大公で、決戦を避ける姿勢も同じ。短期決着になったとは限らない |
| B:ヨハン大公の別働軍が戦場に到着する | 墺軍が約1.2〜1.3万を追加できた | 損害比がさらに悪化し、「勝ったが終わらせられない」性質が強まった可能性 |
| C:ランヌが健在で第II軍団を率いていた | 実行の質は上がる | だが相手が誘導に乗らないという条件は変わらない。消耗戦への転回は人の問題ではない |
三つとも、転回そのものは止められない。方法の有効期限を決めていたのは、こちらの側ではなかった。
7. 戦略的帰結:勝ったが、終わらせられない
10月14日のシェーンブルン条約(ウィーン条約)でオーストリアは再び屈服し、第五次対仏大同盟は終わった[2]。ワグラムは後年「皇帝最後の勝利」と呼ばれることになる。
ここで現れた性質——勝っても敵軍を壊滅させられない——は、3年後のロシア遠征で決定的な形を取る。ボロジノでは、戦場を制してなお何も決まらなかった。1809年はその予告編である。
8. 現代への示唆
(1)うまくいった方法には有効期限があり、それを決めるのは相手である。 誘導が効かなくなったのは、やり方が下手になったからではない。相手が観察し、学習し、対策したからである。成功した手法ほど早く読まれる——だから有効期限は、成功の度合いに反比例して短くなる。
(2)前提条件は、戦術より先に作り直す。 5月と7月の差は、戦い方ではなく渡河の準備にあった。うまくいかなかったとき、手順を改良する前に「その手順が前提にしていた条件のうち、どれが崩れていたか」を先に見るほうが早い。前提が崩れたままの改良は、精度を上げても届かない。
結語
1809年は、勝敗で見れば勝ちの年である。だが勝ち方の内訳を見ると、この年に何かが入れ替わっている。数で劣って損害を3分の1に抑えるやり方から、数で上回って損害を互角に払うやり方へ。
相手が学習を終えたとき、残るのは物量だった。そしてフランスは、その物量を毎年更新できる国ではなかった。この一点が、第六次対仏大同盟戦争で約2倍の敵に包囲される伏線になる。
前の戦争は第四次対仏大同盟戦争、次はロシア遠征。
出典
- David G. Chandler, The Campaigns of Napoleon, Macmillan, 1966.
- Encyclopædia Britannica, Battle of Wagram.
- Harrison W. Mark, Battle of Wagram, World History Encyclopedia, 2023.
- Gunther E. Rothenberg, The Emperor's Last Victory: Napoleon and the Battle of Wagram, Weidenfeld & Nicolson, 2004.
- J. Rickard, Battle of Wagram, 5-6 July 1809, History of War, 2009.
- Wikipedia contributors, Battle of Wagram.