第五次対仏大同盟戦争

1809 · 中央ヨーロッパ

第五次対仏大同盟戦争

オラース・ヴェルネ《ワグラムの戦い、1809年7月6日》1836年、油彩・カンヴァス 465×543cm、ヴェルサイユ宮殿「戦闘の回廊」所蔵(MV 2776)。砲弾に倒れたベシエール元帥を傍らに、戦場を見渡すナポレオンを描く。Public Domain, via Wikimedia Commons

1809年5月、アスペルン=エスリンクでナポレオンは初めて野戦に敗れた。6週間後、同じ川の同じ区域から出直したワグラムで勝ち返している。だが勝ち方が変わった。この年を境に、敵を動かして勝つ戦争が、火力と数で押し合う戦争へ変質していく。

期間
1809年4月 — 10月開戦から講和まで約6か月
戦域
ドナウ流域(バイエルン〜ウィーン近郊)主戦場はウィーン東方の平原
交戦勢力
フランスほか同盟軍 vs オーストリア第五次対仏大同盟
結末
フランスの勝利(高い代償)→ シェーンブルン条約・戦争終結

1. この戦争は何を賭けていたか

オーストリアは1805年の敗戦から立ち直り、軍を作り直していた。スペインにフランス軍主力が拘束されている隙を突く——それが1809年の開戦判断である[2]。

賭けられていたのは、当たり前だが見落とされやすい一点だった。相手も学習する。第三次対仏大同盟戦争で誘導に嵌ったオーストリア軍は、同じ手には二度乗らない。方法は古びていないのに、方法が効く条件のほうが変わっていた。

2. 相手も学習する

1805年と1809年のオーストリア軍の違い:見せられた弱点に乗らず、決戦を急がず、渡河点を狙うようになった
図:同じ入力で同じ出力が出なくなるのは、方法が劣化したからではなく、相手の側が更新されたからである。

カール大公は決戦を急がず、不利な地形では戦わず、渡河点という弱い環を狙うようになった[4]。誘導は敵の能動性に依存する。動く前に考え直す相手には、餌が効かない。

この会戦に、ランヌはいない

ワグラムの記述でしばしば混同されるが、ランヌはこの会戦に参加していない。6週間前のアスペルン=エスリンクで重傷を負い、戦死している[1]。1809年は、方法だけでなくそれを実行してきた人間も欠け始めた年だった。この欠落が決定的な形をとるのは、6年後の百日天下である。

3. 同じ川を二度渡る

5月のアスペルン=エスリンクでの敗北と、7月のワグラムでの成功の比較:変えたのは戦術ではなく渡河という前提条件
図:5月は前提が断たれ、7月は前提を作り直した。差は戦術ではなく準備にある。

5月の敗北は、ドナウ渡河中に浮橋を破壊されたことで起きた。増援も弾薬も届かず、渡り切った部隊が孤立する。方法の失敗ではなく、方法の前提(部隊を集中できること)が断たれた結果である[3]。

7月のワグラムの戦いでは、その前提が作り直された。ロバウ島を要塞に変え、橋を架け直し、渡河そのものを作戦の一部として設計している[5]。同じ川、同じ相手、同じ方法。変えたのは条件だけで、結果が反転した。

ドナウ渡河
ジャック=フランソワ・スヴバック=デフォンテーヌ《ワグラムの戦いに先立つナポレオンのドナウ渡河》1810年、油彩・カンヴァス 80.5×128.5cm、アプスリー・ハウス(ウェリントン博物館、ロンドン)所蔵。Public Domain, via Wikimedia Commons。

4. 勝ち方が入れ替わった

アウステルリッツとワグラムの損害比較:1805年は損害約3.5分の1で敵が壊滅、1809年は兵力優位でも損害ほぼ互角
図:損害比が、方法の変化をそのまま映している。

兵力(2日目正午までの投入)

仏 約 1.25 倍

仏

約 154,000 → 172,000約4分の1がザクセン・バイエルン・イタリアの同盟軍

墺

約 136,000ヨハン大公の別働軍 約1.2〜1.3万は到着せず

損害(戦死・負傷・捕虜)

双方 ほぼ互角

仏

約 33,000〜37,500将官40名を含む・史料により幅

墺

約 37,000〜41,000両軍合計 約7万以上。当時ヨーロッパ史上最大の流血

アウステルリッツがメスなら、ワグラムはハンマーだった。決め手になったのは巧みな機動ではなく、中央に集中させた約112門の砲と、消耗を受け入れた押し込みである[1]。しかもオーストリア軍主力は壊滅せず、秩序を保って退いた。

ワグラムの戦い(オラース・ヴェルネ)
オラース・ヴェルネ《ワグラムの戦い、1809年7月6日》1836年、油彩・カンヴァス 465×543cm、ヴェルサイユ宮殿「戦闘の回廊」所蔵(MV 2776)。砲弾に倒れたベシエール元帥を傍らに、戦場を見渡すナポレオンを描く。Public Domain, via Wikimedia Commons

5. 転回を決めた四つの要素

01

相手が誘導に乗らなくなった

見せた弱点に飛びつかず、不利な地形では戦わない相手には、状況の設計が効かない[4]。誘導は敵の能動性に依存する技術である。

02

戦場が大きくなりすぎた

両軍あわせて30万を超える規模では、一点を突いて全体を崩す構図が成立しにくい。規模そのものが、機微な設計を鈍らせる。

03

砲兵が支援から決定打へ

中央に約112門を集中させた運用は、機動で作った局面を火力で仕上げるやり方だった[1]。効くが、相手にも同じ方法が使える——優位は一時的にしかならない。

04

実行者が欠け始めた

ランヌはこの会戦にいない。6週間前に戦死している[1]。方法を実行できる人間の層が薄くなることは、方法そのものの劣化と同じくらい効いてくる。

6. もし5月の渡河が成功していたら

以下は史料に基づく思考実験であり、帰結は実証不可能である。要素間の依存関係を可視化する目的で示す。

変えた条件直接の帰結戦争全体への影響
A:5月に浮橋が保たれ、渡河が完了する 孤立が起きず、初の野戦敗北という記録も生まれない ただし相手は同じカール大公で、決戦を避ける姿勢も同じ。短期決着になったとは限らない
B:ヨハン大公の別働軍が戦場に到着する 墺軍が約1.2〜1.3万を追加できた 損害比がさらに悪化し、「勝ったが終わらせられない」性質が強まった可能性
C:ランヌが健在で第II軍団を率いていた 実行の質は上がる だが相手が誘導に乗らないという条件は変わらない。消耗戦への転回は人の問題ではない

三つとも、転回そのものは止められない。方法の有効期限を決めていたのは、こちらの側ではなかった。

7. 戦略的帰結:勝ったが、終わらせられない

10月14日のシェーンブルン条約(ウィーン条約)でオーストリアは再び屈服し、第五次対仏大同盟は終わった[2]。ワグラムは後年「皇帝最後の勝利」と呼ばれることになる。

ここで現れた性質——勝っても敵軍を壊滅させられない——は、3年後のロシア遠征で決定的な形を取る。ボロジノでは、戦場を制してなお何も決まらなかった。1809年はその予告編である。

8. 現代への示唆

(1)うまくいった方法には有効期限があり、それを決めるのは相手である。 誘導が効かなくなったのは、やり方が下手になったからではない。相手が観察し、学習し、対策したからである。成功した手法ほど早く読まれる——だから有効期限は、成功の度合いに反比例して短くなる。

(2)前提条件は、戦術より先に作り直す。 5月と7月の差は、戦い方ではなく渡河の準備にあった。うまくいかなかったとき、手順を改良する前に「その手順が前提にしていた条件のうち、どれが崩れていたか」を先に見るほうが早い。前提が崩れたままの改良は、精度を上げても届かない。

結語

1809年は、勝敗で見れば勝ちの年である。だが勝ち方の内訳を見ると、この年に何かが入れ替わっている。数で劣って損害を3分の1に抑えるやり方から、数で上回って損害を互角に払うやり方へ。

相手が学習を終えたとき、残るのは物量だった。そしてフランスは、その物量を毎年更新できる国ではなかった。この一点が、第六次対仏大同盟戦争で約2倍の敵に包囲される伏線になる。

前の戦争は第四次対仏大同盟戦争、次はロシア遠征。

出典

  1. David G. Chandler, The Campaigns of Napoleon, Macmillan, 1966.
  2. Encyclopædia Britannica, Battle of Wagram.
  3. Harrison W. Mark, Battle of Wagram, World History Encyclopedia, 2023.
  4. Gunther E. Rothenberg, The Emperor's Last Victory: Napoleon and the Battle of Wagram, Weidenfeld & Nicolson, 2004.
  5. J. Rickard, Battle of Wagram, 5-6 July 1809, History of War, 2009.
  6. Wikipedia contributors, Battle of Wagram.

この戦争・戦役の分析記事

よくある質問

1809年に、オーストリアがフランスに挑んだ戦争です。5月のアスペルン=エスリンクでナポレオンは初めて野戦に敗れ、7月5〜6日のワグラムで勝ち返しました。10月14日のシェーンブルン条約(ウィーン条約)で終結しています。

1809年5月21〜22日のアスペルン=エスリンクです。ドナウ渡河の最中に浮橋を破壊され、渡り切った部隊が孤立しました。増援も弾薬も届かず、方法そのものではなく方法の前提が断たれた形の敗北でした。この戦闘でランヌが致命傷を負っています。

砲兵の集中運用です。中央に約112門を集めた砲撃と、消耗を受け入れた押し込みで決着しました。巧みな機動ではありません。両軍あわせて30万を超える兵力が正面からぶつかり、損害は合計約7万以上で当時ヨーロッパ史上最大の流血となりました。

これ以降、ナポレオンが決定的勝利で戦争を終わらせた例がないためです。ワグラムでもオーストリア軍主力は壊滅せず、秩序を保って退いています。勝ってはいるものの、敵軍を消滅させる形の勝利ではなくなっていました。

相手が学習したことです。1805年に誘導へ嵌ったオーストリア軍は、カール大公のもとで不利な地形では戦わず、決戦を急がず、渡河点という弱点を狙うようになりました。誘導は敵が能動的に動くことを前提にした技術なので、この変化で効きにくくなります。

勝ち方の性質が入れ替わっています。1805年のアウステルリッツでは数で劣りながら損害を敵の約3.5分の1に抑えました。1809年のワグラムでは兵力で上回りながら損害はほぼ互角(仏 約3.3〜3.75万、墺 約3.7〜4.1万)です。機動の優位が、火力と数の押し合いに置き換わりました。

「勝っても敵軍を壊滅させられない」という性質が、3年後のロシア遠征で決定的な形を取ります。ボロジノでは戦場を制してなお何も決まりませんでした。1809年はその予告編にあたります。

今後追加予定の会戦

この戦争・戦役に含まれるが、まだ記事化していない会戦。

  • アブンスベルクの戦い (1809)
  • エックミュールの戦い (1809)
  • ラティスボンの戦い (1809)
  • アスペルン=エスリンクの戦い (1809)
  • ツナイム停戦 (1809)