第六次対仏大同盟戦争

1813–1814 · 中央ヨーロッパ

第六次対仏大同盟戦争

ウラジーミル・モシコフ《1813年10月16日、ライプツィヒの戦い》1815年、油彩・カンヴァス、1812年祖国戦争博物館(ロシア)所蔵。Public Domain, via Wikimedia Commons

1813年7月12日、トラッヘンベルクで連合軍が合意した方針は一行に要約できる。ナポレオン本人がいる軍とは戦わない。元帥が指揮する軍を叩く。戦術の工夫ではない。会うか会わないかを決める規則である。相手はこちらの勝ち方を真似たのではなく、勝ち方が成立する条件のほうを壊した。

期間
1813年 — 1814年4月ドイツ戦役から1814年フランス戦役まで
戦域
ドイツ(ザクセン・シレジア)とフランス本土主戦場はエルベ川流域
交戦勢力
フランス vs ロシア・プロイセン・オーストリア・スウェーデンほか第六次対仏大同盟
結末
フランスの敗北→ ライプツィヒ・パリ陥落・退位

1. この戦争は何を賭けていたか

ロシア遠征で失われたのは兵だけではない。馬が約17万5,000頭失われ、その多くは訓練を積んだ騎兵の乗馬だった[4]。人は徴兵で数を戻せる。騎兵の馬と、その乗り手の熟練は戻らない。

1813年春、新しい軍は編成された。数の上では戦える。だが偵察の目と、追撃の脚が欠けていた。この欠落が、この年の勝敗を静かに決めていく。

賭けられていたのは領土ではなく、方法そのものが1813年の条件でまだ働くかだった。答えは、半分だけ働いた。

2. 勝っても、決められない軍

5月2日のリュッツェン、5月20〜21日のバウツェン。どちらも勝っている。それでも敵軍は壊れなかった。理由は指揮ではなく騎兵にある。敗走する敵を追い切る脚がなければ、勝利は「相手が下がった」以上のものにならない[4]。

以前の戦役では、この追撃が勝利を決定に変えていた。第三次対仏大同盟戦争でウルムとアウステルリッツが戦争そのものを終わらせたのは、敵軍を軍として消したからである。1813年には同じことができない。

勝ちが決定に変わらない軍は、勝ち続けても状況を改善できない。この性質は、相手にとって好都合だった。負けても軍が残るなら、負けを重ねながら待てばよい。

3. 一行の規則

トラッヘンベルク計画の一行の規則と、そこから出る三つの帰結を示した図
図:規則は一行しかない。そこから出る帰結が三つとも、こちらの方法を止めにかかる。

7月9日から12日にかけて、ロシア皇帝、プロイセン国王、そしてかつてフランス元帥だったベルナドットがトラッヘンベルクで会談した。まとめられた計画は、ベルナドットが主に起草し、オーストリア参謀長ラデツキーが手を入れている[1]。

内容は消耗戦の処方箋だった。三つの軍が独立に動き、本人が来たら退き、元帥が来たら戦う。連絡線を脅かしながら包囲を狭めていく[1]。

この規則の効き目は、内線作戦の前提を突いているところにある。内線とは、分かれた敵を順に叩いて局所の多数を作る技術だった。だが相手が「叩かれる位置に留まらない」と決めたとき、内線は往復するだけの装置になる。走るのはこちらだけで、減るのもこちらだけになる。

4. 勝った同じ期間に、四つ負けている

1813年8月23日から9月6日までの間に、ドレスデンの勝利と四つの敗北が同時進行したことを示す年表図
図:8月26〜27日の勝利と、カッツバッハの敗北は同じ日に起きている。

8月23日グロースベーレン(ウディノー)、26日カッツバッハ(マクドナル)、29〜30日クルム(ヴァンダム)、9月6日デンネヴィッツ(ネイ)。15日のあいだに四つ負けた。同じ期間、本人は8月26〜27日のドレスデンで勝っている[1]。

1813年の主要会戦を、本人が指揮した会戦と元帥が単独で指揮した会戦に分けて勝敗を並べた表
図:指揮官が誰かで結果がほぼ決まっている。連合軍はこの分布を利用した。

この分布は偶然ではない。方法は本人の頭の中にあって、組織に移されていなかった。軍団制という仕組みは移譲できたが、いつ集中し、どこで決戦を受けるかという判断そのものは委譲されなかった。20年かけて作った軍は、司令官が一人しかいない軍だった。

処方箋を書いたのは、内側にいた男である

トラッヘンベルク計画を主に起草したベルナドットは、1804年にフランス元帥となり、アウステルリッツにもイエナにも出た人物である。1810年にスウェーデン王太子となり、1813年には連合軍の一角を率いていた[1]。方法の弱点を最も正確に知っていたのは、その方法で戦ってきた人間だった。誘導が効くのは相手が能動的に動くときだけで、決戦の場所と時間を選べるのは主導権を握った側だけである——それを内側から見ていた者が、外から規則を書いた。

5. ライプツィヒ:数が方法を上回った日

兵力(3日目までの増勢)

連合軍 約 1.8 倍

仏

約 177,000 → 195,000増援はわずか。同盟諸邦を含む

連合

約 257,000 → 360,000日を追うごとに増えた

損害(4日間・戦死傷・捕虜)

両軍 合計 約 13 万

仏

約 60,000〜80,000戦死傷 約3.8万+捕虜 約3万+離反した同盟兵

連合

約 54,000露2.3万・普1.6万・墺1.5万

ライプツィヒの戦い(10月16〜19日)で、規則は最終形に達した。三つの軍が同時に到着すれば、本人を避ける必要はもうない。包囲の完成とは、相手が逃げなくてよくなった状態のことである。

プロプストハイダ村の攻防を描いた絵画
エルンスト・ヴィルヘルム・シュトラスベルガー《1813年10月18日、プロプストハイダ村の攻撃》、油彩・カンヴァス。Public Domain, via Wikimedia Commons。勝敗を決めたのは機動ではなく、こうした正面の消耗だった。

翌1814年、本土に退いた側はシャンポベール、モンミライユ、ヴォーシャンと連勝している。それでも3月31日にパリが落ち、4月6日に退位した。戦術的な勝利をいくつ積んでも、戦域全体の収支が変わらなくなっていた。

6. この戦争を決めた四つの要素

01

追撃できない軍になった

ロシアで馬約17万5,000頭を失い、リュッツェンもバウツェンも決定打にならなかった[4]。勝ちを決定に変える手段が欠けていた。

02

相手が会わないと決めた

トラッヘンベルク計画は戦術ではなく、会うか会わないかの規則だった[1]。誘導も集中も、相手が盤上に留まることを前提にしている。

03

方法が委譲されていなかった

本人が指揮した会戦は勝ち、元帥の単独指揮は連敗した[2]。属人的な能力は、仕組み(軍団制)ごと渡しても一緒には渡らない。

04

損失を補充できなかった

ライプツィヒで連合軍は日ごとに増え、こちらの増援はわずかだった[3]。互角の消耗戦は、補充できる側の勝ちになる。

7. もし条件が違っていたら

以下は史料に基づく思考実験であり、帰結は実証不可能である。要素間の依存関係を可視化する目的で示す。

変えた条件直接の帰結戦争全体への影響
A:1813年に十分な騎兵があった リュッツェンとバウツェンで追撃が成立する 敵の一角が軍として崩れれば、包囲は完成しない。ただし他の二軍は規則どおり退くだけで、決着は先送りされた可能性が高い
B:元帥に単独指揮を任せなかった 分散した戦域を一人で見ることになる 物理的に不可能である。連合軍が三軍で来ている以上、委譲を避ければ避けるほど手が足りなくなる
C:8月の講和提案を受け入れていた 戦争が中断し、包囲は完成しない 領土は縮むが体制は残る。ただし勝利で正当化される権力にとって、縮小は敗北と同義だった

三つとも、規則そのものは無効化できない。この年に効かなくなったのは腕ではなく、腕が効く条件のほうだった。

8. 現代への示唆

(1)強い相手には、勝ち方ではなく「土俵に上がる条件」を変えて対抗する。 正面から比べれば勝てない相手に、同じ土俵で工夫を重ねても差は詰まらない。連合軍が採ったのは相手の得意な局面が発生しないようにするという方針で、これは能力の差を無効化する数少ない方法である。避けることは逃げることではなく、選択の設計にあたる。

(2)属人的な強さは、仕組みを渡しても一緒には渡らない。 軍団制という組織は移譲できたのに、いつ集中しどこで決戦するかという判断は移らなかった。仕組みや権限を与えれば人が育つという想定は、判断の基準そのものを言語化していない限り成立しない。名人が現場にいる間は、この欠落は見えない。

9. 結語

1813年は、負け続けた年ではない。本人が出た会戦はほとんど勝っている。それでも戦争には負けた。個々の勝敗と、戦域全体の収支は別の帳簿である。

一行の規則が二十年の方法を止めた。だがその規則を書いたのは、内側にいた人間だった。方法が最も危険な相手は、その方法をよく知っている者である。

前はロシア遠征、次は百日天下。最後の戦役では、規則以前の問題——実行する人間の層——が尽きる。

出典

  1. J. Rickard, Trachenberg Plan, 12 July 1813, History of War, 2009.
  2. Wikipedia contributors, German campaign of 1813.
  3. Michael V. Leggiere, The Fall of Napoleon: The Allied Invasion of France 1813-1814, Cambridge University Press, 2007.
  4. The Napoleon Series, Napoleon's Equine Strategy in 1813.
  5. Encyclopædia Britannica, Battle of Leipzig.
  6. David G. Chandler, The Campaigns of Napoleon, Macmillan, 1966.

この戦争・戦役の分析記事

よくある質問

1813年7月12日に連合軍がまとめた方針で、ナポレオン本人が指揮する軍とは戦わず、元帥が指揮する軍を叩き、連絡線を脅かしながら包囲を狭めるというものです。ベルナドットが主に起草し、オーストリア参謀長ラデツキーが手を入れました。戦術ではなく、会うか会わないかを決める規則である点が特徴です。

15日間で四つの成果が出ました。8月23日グロースベーレン(ウディノー)、26日カッツバッハ(マクドナル)、29〜30日クルム(ヴァンダム)、9月6日デンネヴィッツ(ネイ)です。同じ期間、ナポレオン本人は8月26〜27日のドレスデンで勝っています。

方法が本人の頭の中にあり、組織へ移されていなかったためです。軍団制という仕組みは委譲できましたが、いつ集中しどこで決戦を受けるかという判断は委譲されませんでした。1813年に本人が負けた会戦は、数の差が決定的になったライプツィヒだけです。

騎兵です。ロシア遠征で馬を約17万5,000頭失い、その多くが訓練を積んだ乗馬でした。偵察の目と追撃の脚を欠いたため、5月のリュッツェンとバウツェンで勝っても敵軍を壊滅させられません。勝ちが決定に変わらない状態になっていました。

三つの連合軍が同時に到着し、本人を避ける必要がなくなったからです。10月16〜19日の4日間で、フランス軍 約17万7,000〜19万5,000に対し連合軍は約25万7,000から36万へ増え続けました。フランス側の損害は約6万〜8万に達しています。

2月のシャンポベール、モンミライユ、ヴォーシャンでは勝っています。それでも3月31日にパリが落ち、4月6日に退位しました。戦術的な勝利をいくつ積んでも、戦域全体の収支が変わらない段階に入っていたためです。

1804年にフランス元帥となり、アウステルリッツにもイエナにも従軍した人物です。1810年にスウェーデン王太子となり、1813年には連合軍の北方軍を率いました。トラッヘンベルク計画を主に起草しています。方法の弱点を最も正確に知っていたのは、その方法で戦ってきた人間でした。

個々の勝敗と、戦域全体の収支は別の帳簿だということです。本人が出た会戦はほとんど勝ちながら、戦争には負けました。強い相手に対しては、同じ土俵で工夫を重ねるより、その相手の得意な局面が発生しないように条件を変えるほうが効きます。

今後追加予定の会戦

この戦争・戦役に含まれるが、まだ記事化していない会戦。

  • リュッツェンの戦い (1813)
  • バウツェンの戦い (1813)
  • ドレスデンの戦い (1813)
  • クルムの戦い (1813)
  • カッツバッハの戦い (1813)
  • デンネヴィッツの戦い (1813)