百日天下

1815 · ベルギー

百日天下

クレマン=オーギュスト・アンドリュー《ワーテルローの戦い、1815年6月18日》1852年、油彩・カンヴァス、ヴェルサイユ宮殿所蔵(MV 6340)。Public Domain, via Wikimedia Commons

1815年2月26日にエルバ島を脱し、100日後にワーテルローで終わる。この戦役の敗因としてよく挙がるのは体調と天候と「もしグルーシーが」である。だが構造で見ると、そこではない。図面は通っていた。崩れたのは、図面を実物に変える工程だった。

期間
1815年3月 — 6月上陸から退位まで約100日
戦域
ベルギー南部4日間に3つの会戦が集中した
交戦勢力
フランス vs イギリス連合・プロイセンほか第七次対仏大同盟
結末
フランスの敗北→ 6月22日に退位・帝政の終わり

1. この戦争は何を賭けていたか

復位した皇帝を、ヨーロッパは交渉相手として認めなかった。四つの戦線で動員が始まる。この時点の兵力比はフランス約25万に対し、連合側は約85万にのぼった[2]。時間が経つほど差は開く。

だから勝利条件は一つしかない。相手が集結し切る前に、分かれている敵を順に叩く。ベルギーへ投入できたのは約12万4,000〜12万6,000と砲約350門で、その正面にはウェリントンの英連合軍とブリュッヒャーのプロイセン軍が、まだ別々にいた[2]。

構想としては、第一次イタリア戦役で確立した内線そのものである。19年前と同じ図面が、同じ理由で選ばれた。

2. 図面は正しかった

中心位置の三段構想と、1815年6月に実際に起きたことを段階ごとに比較した図
図:段を追うごとに、構想と実際の差が開いていく。

6月15日、二つの敵軍のあいだに楔が打ち込まれた。第一段は成立している。16日には二つの会戦が同時に起き、リニーでプロイセン軍が打撃を受けた。ここまでは図面どおりである。

問題は勝ち方の質にあった。プロイセン軍は敗れたが軍として壊れず、しかも退路である東ではなく北のワーヴルへ退いた——ウェリントンとの連絡を保てる方向である[1]。分断は形の上では成功したのに、維持されていない。

17日午後になってようやくグルーシーに約3万3,000が与えられ、追撃が命じられた。派遣は遅く、目標は曖昧だった。18日、その部隊はワーヴル方面にいて、ワーテルローの戦場には約4万8,000〜5万のプロイセン軍が現れる[3]。背後を空にできるという前提だけが、崩れていた。

3. 2万人が、どちらの戦場にも参加しなかった日

1815年6月16日、デルロン軍団がカトル・ブラとリニーの間を往復し、どちらの戦闘にも参加しなかったことを示す図
図:二本の命令が同じ部隊に届いた結果、その部隊はどこにもいなかった。

6月16日、約10km離れて二つの会戦が同時に行われていた。カトル・ブラではネイがウェリントンと、リニーでは皇帝がブリュッヒャーと戦っている。どちらも増援があれば決着していた。

その増援になれたはずのデルロンの第I軍団は、カトル・ブラへ向かう途中で皇帝の命令によりリニーへ転じ、次いでネイの取り消し命令で引き返した。結果、約2万の兵は一日を二つの戦場のあいだの行進に費やし、どちらの戦闘にも加わっていない[4]。

これは判断力の問題ではない。同じ部隊に二人が命令を出せる状態を、誰も止めなかったことの問題である。命令系統の設計は参謀の仕事であり、その参謀総長はこの戦役にいなかった。

ワーテルローで親衛隊の最後の突撃を描いた絵画
アーネスト・クロフツ《ワーテルローにおけるナポレオン最後の大攻撃》1895年。Public Domain, via Wikimedia Commons。最後の一手が投じられた時点で、背後にはすでに第三の軍がいた。

4. 実行する層が、人ごと欠けていた

1805年に方法を実行していた人物が1815年6月にはどこにいたかを一覧にした表
図:死亡・不在・拒絶。同じ構想を書いても、実行する層が違う。

20年にわたり参謀総長を務めたベルティエは、1815年6月1日にバンベルクで窓から転落して死去した[5]。代わりに参謀総長を務めたのはスールトで、軍団長としては有能だったが、この職務には不慣れだった[5]。曖昧な命令が繰り返されたのは、個人の怠慢というより配置の問題である。

欠けていたのは一人ではない。ランヌは1809年に、ベシエールは1813年に戦死している。最良の軍団長ダヴーは陸相としてパリに留まり、戦場にいない[6]。騎兵のミュラは復帰を申し出たが、前年の離反を理由に拒まれた[5]。

皇帝がいない戦場で勝った日が、かつてあった

1806年10月14日、アウエルシュテットでダヴーは約2万6,000で約6万3,000のプロイセン主力を破っている。皇帝は別の戦場にいた。方法が人に移っていた瞬間が、確かに存在した。だが1815年、そのダヴーはパリで陸相を務めている。冗長性は制度として残らず、たまたま優れた人がいた期間として過ぎ去った。第四次対仏大同盟戦争と1815年を分けたのは方法ではなく、その方法を持てる人が現場にいたかどうかである。

5. この戦役を決めた四つの要素

01

分断はしたが、維持できなかった

リニーで勝ちながら敵は北へ退き、連絡が切れていない[1]。分断は一度作れば済むものではなく、毎日更新する作業だった。

02

命令が二重に走った

6月16日、約2万が二つの戦場の間を往復してどちらにも参加しなかった[4]。誰が誰に命令できるかを決めるのは、戦術ではなく設計の仕事である。

03

参謀総長がいなかった

ベルティエは開戦直前に死去し、スールトが不慣れなまま代行した[5]。命令を正確に配る仕事は、才能ではなく職務として存在していた。

04

時間が最初から敵だった

約25万に対し連合側は約85万を動員しつつあった[2]。一度でも決着を逃せば終わる条件のもとでは、実行の小さな欠落がそのまま致命傷になる。

6. もし条件が違っていたら

以下は史料に基づく思考実験であり、帰結は実証不可能である。要素間の依存関係を可視化する目的で示す。

変えた条件直接の帰結戦役全体への影響
A:デルロン軍団がどちらか一方に投入された カトル・ブラかリニーのどちらかが決着する プロイセン軍が壊れていれば、18日の戦場に第三の軍は現れない。この一日が最も費用対効果の高い分岐である
B:ベルティエが健在だった 命令の宛先と優先順位が整理される 二重命令は起きにくい。ただし兵力差そのものは変わらず、決着を早める効果にとどまった可能性が高い
C:ダヴーが戦場、他の者がパリにいた 右翼または左翼の指揮の質が上がる 首都の統制は緩む。人が足りない状況では、どこに置いても別のどこかが空く

三つとも、勝利を保証しない。それでも A と B は、同じ図面がもっと正確に実物になったことを意味する。

7. 戦略的帰結

6月18日の敗北から4日後、6月22日に退位した。7月にはパリが明け渡され、帝政は終わる。20年にわたる戦争が、4日間のベルギーでの3つの会戦で幕を閉じた。

長い目で見れば、この戦役が示したのは1813年から続く同じ主題の最終形である。第六次対仏大同盟戦争では、方法が本人の頭にあって組織へ移されていないことが問題になった。1815年には、その本人の周りにいた実行者すらいなくなっていた。図面は残ったが、図面を読める人間が減っていた。

8. 現代への示唆

(1)実行できない戦略は、戦略として不完全である。 図面が正しくても、それを実物に変える工程が伴わなければ結果は出ない。よくある誤解は、失敗の原因を構想か実行かに切り分けようとすることだが、実行できる範囲を含めて構想を立てるのが設計の仕事である。19年前と同じ図面を、人が入れ替わった組織で使ったところに無理があった。

(2)指示系統の重複は、能力の不足より速く成果を消す。 二人が同じ部隊に命令を出せる状態を放置した結果、2万人が何もしない一日を過ごした。誰が誰に指示できるかを決める仕事は、地味だが代替がきかない。その職務を担う人がいなくなったとき、失われるのは効率ではなく、指示そのものの意味である。

9. 結語

百日天下は、老いた天才が衰えて負けた話として語られやすい。だが6月15日から18日までの動きを追うと、構想の側にはほとんど衰えが見えない。楔は打ち込まれ、二つの敵は一度は分かれた。

崩れたのは、その構想を現場に届ける経路のほうだった。命令を配る人、それを受けて自分で判断する人、判断を支える経験。20年かけて作られなかったのは、天才の代わりではなく、天才を実行に変える層の再生産だった。

前は第六次対仏大同盟戦争。この戦役で、シリーズは終わる。

出典

  1. Wikipedia contributors, Waterloo campaign.
  2. Wikipedia contributors, Hundred Days.
  3. Fondation Napoléon, The Battle of Waterloo, 18 June 1815.
  4. The Napoleon Series, The Key to Victory: General d'Erlon's I Corps, 16 June 1815.
  5. Encyclopædia Britannica, Louis-Alexandre Berthier, prince de Wagram.
  6. Fondation Napoléon, Davout, Louis Nicolas.
  7. David G. Chandler, The Campaigns of Napoleon, Macmillan, 1966.

この戦争・戦役の分析記事

よくある質問

1815年2月26日にエルバ島を脱したナポレオンが復位し、6月22日に退位するまでの約100日を指します。軍事的な決着は6月15日から18日のベルギーで、リニー、カトル・ブラ、ワーテルローの3つの会戦に集中しました。

構想ではなく実行です。二つの敵軍の間に入る図面は6月15日に成立し、16日のリニーで分断も一度は実現しました。崩れたのはその後で、追撃が接触を失い、退いたはずのプロイセン軍が18日の戦場に約4万8,000〜5万で現れています。

6月16日、約10km離れたカトル・ブラとリニーで会戦が同時に行われる中、第I軍団は皇帝の命令でリニーへ向かい、ネイの取り消し命令で引き返しました。結果として約2万の兵は一日を行進に費やし、どちらの戦闘にも参加していません。

同じ部隊に二人が命令を出せる状態だったからです。命令の宛先と優先順位を整理するのは参謀総長の職務ですが、20年その職にあったベルティエは1815年6月1日に死去しており、代行のスールトはこの仕事に不慣れでした。

ダヴーは陸相としてパリに留まり、戦場には出ていません。ミュラは復帰を申し出ましたが、前年の離反を理由に拒まれました。ランヌは1809年、ベシエールは1813年に戦死しています。方法を実行してきた層が人ごと欠けていました。

プロイセン軍が軍として壊れず、退路である東ではなく北のワーヴルへ退いたためです。これはウェリントンとの連絡を保てる方向でした。形の上では分断できても、維持されていません。分断は一度作れば済むものではなく、毎日更新する作業です。

戦役全体では、フランス約25万に対し連合側は四つの戦線で約85万を動員しつつありました。ベルギーへ投入できたのは約12万4,000〜12万6,000と砲約350門です。時間が経つほど不利になるため、一度でも決着を逃せば終わる条件でした。

実行できない戦略は戦略として不完全だということです。19年前と同じ図面を、人が入れ替わった組織で使ったところに無理がありました。また、指示系統の重複は能力の不足より速く成果を消します。2万人が何もしない一日を過ごしたのがその例です。

今後追加予定の会戦

この戦争・戦役に含まれるが、まだ記事化していない会戦。

  • リニーの戦い (1815)
  • カトル・ブラの戦い (1815)